かつて平野には“黒別荘”と呼ばれた建物があった。 遡る事、明治12年―大阪市内では空前のコレラ蔓延騒ぎが勃発―数多くの犠牲者が出たそうな。(南無…) 環濠都市であった平野郷ではいち早く、13ある木戸口を閉門! コレラ蔓延の収束を静かに待ち、環濠内では一人も犠牲者を出さなかったそうである。 この一件を教訓にと、環濠内において疫病患者が発生した事を想定してか、隔離された収用施設が後に建設される事となった。 これこそが「黒別荘」と呼ばれる建物である。 何ゆえ“黒別荘”なのか? それは隔離施設とは思えない程の立派でハイセンス、住民達誰しもが羨むほどの建物だったからである。 結局、戦後に取り壊されるまでの間、本来の目的で使用される事は幸いにして無かった。 しかし、戦後間もない時期、本来とは違った目的で使用され、スポットを浴びる事となる。 “誰もが羨む建物~”とは言っても、隔離病棟としての施設、遠目で見る事はあっても施設の中までは入る人など殆どいなかったそうだ。 そこに目をつけた数人の悪党達が蠢き出す…。 コイツらはその盲点をつき、黒別荘で“偽札作り”に着手したのであった! OH!マイガッ!!何てこったい!フェイクマネーのアジトになってしまったのかい! いつの時代にも悪い輩はいるもので結局のところ、こやつらは御用となるのだが、後にこの事件はTVドラマの題材としても取扱われたのだそうだ。 兎にも角にも「“黒別荘”と呼ばれるほどの施設を造った、時の平野の指導者達の心意気には感服せざるを得ない」と誇らしげに語るチョー二郎なのであった…。 |
チョー二郎夢日記 番外編
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新コーナーの誕生記念として、松村さん宅で見つけた「これ何?」といったブツをご紹介! まだまだ色んなブツが眠っている模様ゆえ、随時リサーチ並びに報告をしていく予定だからそちらも要CHECK IT OUT!!
さて、今回見つけたブツは「配給台帳と衣料切符」(昭和20年頃)である。 戦中~戦後、物資が不足した時代、日用雑貨品等は決められた点数の範囲内で配給を受けていたのだそうだ。 今回見つけた「衣料切符」では「配給台帳」の記載にあるようにシャツ、ズロース、靴下等をその切符を使用して購入できた。 背広なら50点、シャツなら6点等、品物によって点数は違い、大凡一人あたり100点の切符が支給されたらしい。 無論、物不足ゆえ切符があっても商品自体が無い事もしばしばあり、それら切符を別の物と交換したり…といった具合でとても機能的なシステムではなかった様だ。 嗚呼、現代に生きる我々がいかに恵まれているか、豊かであるかを痛感させられるエピソード…。 「温故知新」―古きを尋ね、新しきを知る―正に我々現代人が失いかけているものではなかろうか? この「配給台帳と衣料切符」が“豊である事が当たり前”になっている我々に「オメェら平和ボケしてんじゃねぇーぞ!」と語りかけている様でならない。 |
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配給台帳 ズロース、シャツ等の記載があり、中には“障子紙”なんてのもある。 |
衣料切符 商品に応じて切り取り、使用したのだそうだ。 |
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昭和40年頃の米穀購入通帳 現在の様に量販店で手軽に購入したりできなかったんだって! 因みに戦中戦後の混乱期には「一人当たり2.3合/日が支給された」との事だが、実際には額面通り受け取れなかった事も多々あったそうだ。 また、米の代わりに芋やキューバ糖(ザラメ)が支給される事も。 |
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米穀購入通帳の裏面 レトロやねぇ~米櫃が嫁入り道具って!?時代ですなぁ…。 |
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“配給米で明るい家庭”…今で言えば“コンビニ弁当で核家族”といったところか…。 |
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米穀購入通帳の中面はこんなカンジでした。 |
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当時の広告に時代を感じます。 「インスタント・ジュース」なるものが夏をリードしていたなんて…“広告は時代の鑑”とはよく言ったもんだ!by 風とロック(ホント?) |
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