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第2回 「朱印船」の巻
まず朱印船とは「異国渡海朱印状」(渡航証明書)を持つ船である。 この“朱印状”を与えられた者だけが異国との貿易を行う事ができた。 「朱印状」とは読んで字の如く、時の権力者によって許可され、朱色のハンコが押された許可書の事である。 朱印船貿易の始まった近世初頭(以降江戸時代においても)“朱印”自体、超々プレミアなお印(しるし)であった。 当時、何の許可も無い一般ピープルが「100均でぇ朱肉買ってぇ、シャチハタでも押しちゃえばイイんじゃない?」なんて事しようものなら無礼千万、極悪非道、国家反逆等々…極刑の極み、いわば“ギザアナーキーす”というレッテルを貼られる事はマチガイナッシングな時代であった。 (“墨印”においては時代劇で言うところの「菓子折り」(政治献金)をエライさんの懐へそ~っと忍ばしちゃえば案外簡単にもらえたらしい) まぁそれだけ“朱印状”を許可された者は超選りすぐりの人物だったわけである。 その数少ない選ばれし者の一人が、わが町平野が誇った豪商「末吉家」(末吉勘兵衛・孫左衛門)であった。 (その人物像については次号3月号「チョー平野郷な話」を要CHECK IT OUT!) とは言え、この当時、最新のレーダーやGPS、海猿等ある(いる)はずも無く、「抜け荷」(密貿易)も結構多かったのも事実…。 また異国との貿易はとってもハード&デンジャラス、かなりヤバめなカンジだったそうだ。 何故ヤバいのか?そ、それは「海賊」の存在であった。 パイレーツ・オブ・瀬戸内海(ex.村上水軍)に始まり、パイレーツ・オブ・東シナ海、パイレーツ・オブ・南シナ海…当時は無数の海賊がウヨウヨしておったそうな。 従って貿易船と言えども、必然的に“武力化”せざるを得なかったのである。 言うに及ばず、末吉家所有の朱印船にも武闘派の乗組員が大勢いたそうだ。 大海原の上、襲われたらウサギちゃんの如く食べられちまうか?降りかかる火の粉を振り払うか?の二者択一しかなかったわけだから当然と言えば至極当然。 戦って蹴散らすしかないのである。 その乗組員達の素性は一体?それは…罪人!それも腕っ節のめっぽう強いヤツ。 彼らは船員であるとともに傭兵でもあったのだ! 来るべき海賊どもと渡り合うにはどうしても彼らのバイオレンスジャック的な能力が必要だったからである。
武力化・武闘派色を強めるに従い、当時の中国、朝鮮半島沿岸一帯、東南アジア諸国からは「朱印船=倭寇」と見なされていたらしい。 そりゃそうだ、朱印船は貿易船とは言え、そんな軍艦チックで無頼の輩達が多く乗り込んでいる船なんてそれこそ“海賊”と見られても当然である。 またその当時、こんなエピソードが残っているそうだ。 「当時ルソン(現在のフィリピン)はスペインの植民地であった。その近海でスペイン海軍と倭寇が武力衝突!ちょっとした戦争に発展し、結果、倭寇が勝ったそうな…」 ははは…何てこったい!OHマイガッ!勝っちまったのかい!!(どっちゃにしろ、戦争はいけません。あしからず…) それだけ当時は“倭寇”の脅威にさらされていた諸外国が多かったという事もこれまた事実なのであろう…。 そんな中、ルソン一帯の島々の酋長達はスペイン・日本(倭寇)両者とうまい事やっていたらしい。 支配するスペイン側へは「倭寇(日本)が恐いのぉ~」とまた日本(倭寇)側へは「スペインの野郎がひどくてさぁ~」なんて八方美人的対応を見せていた事もあったそうな。 ある意味、両者を手玉にとっちゃうなんてさすがは酋長! 言いましても組織のTOPは伊達じゃありません! これも生き残りにおける立派な術ではあ~りませんか!(サラリーマン諸君、要必読!)
話はかなり逸れてしまいましたが(笑) 朱印船の乗組員である罪人達はそんな危険な任務を遂行した暁にはその罪が軽減・免責されたそうだ。 まぁ確かに現在と違って当時の航海は現在の我々が想像を絶する事であったに違いない。 かつて中国の高僧「鑑真」が日本への渡航を幾度も試み失敗し、挙句の果てに命からがら助かるものの、失明してしまった事実から見てもその厳しさたるや…。 勿論、意気揚々と日本を出発したものの、海賊や悪天候によって志半ばで海に散っていた者達もさぞ多かった事であろう。 また、無論GPSや衛星レーダー等もない時代―現在でもヨット等で活用されている航法だが―天文航法のみが頼み綱。 当時、その航法を駆使し、目的地へと導く水先案内人(航海士)を「安針」と呼んでいたそうだ。(かの三浦按針はあまりにも有名) 末吉家が清水寺へ奉納したとされる朱印船の絵馬や杭全神社にある絵にも船先に描かれた黒人と思しき「安針」が描かれている。 おそらく現地の人物(外国人)である事は容易に想像がつく。
さて末吉家の朱印船の話へと舵を戻そう…(ウマイっ) 末吉家が朱印船での南蛮貿易で最も隆盛を迎えたのが太閤秀吉の亡くなった年(1598年)だったそうだ。 この時、朱印船を三隻所有していたとか。 現在で言うところのタンカー船を三隻保有しているのと同じぐらいらしい…。(スゲェ~) そして、朱印船が帰国を果すといの一番にお城へと召されたそうだ。 なぜならば、時の権力者達が一番欲したもの…それは諸外国の最新情報だったから。(その次に最新の武器・武具・馬具だったそう…) また、末吉家の様な豪商となったエピソードの一つに「ルソン壷」なる代物があった。 これはルソン現地でゴロゴロある日用品的に使われていたであろう壷を二束三文にて仕入れ、日本に戻ってからエライ高値を付けて売りさばき莫大な富を得たというエピソードだ。 現在で言うところのトレンドリーダーだった千利休がこの壷を認めた事もあってか、たちまち流行したのだそう。 「ルソン壷」にハマった秀吉を始め、各大名達がこぞって購入、茶壷として茶室で使ったり、観賞用として飾ったりしたらしいのだ。 正に「井の中の蛙、大海を知らず」とはウマイ事言ったもので、商魂逞しい彼ら豪商達の“ツボ”にうまくはめられたというわけ。(これまたウマイっ) 大名の中にはそんな壷に“名”までつけて大事にした者もいたそうで、何ともまるで「裸の王様」みたい。 「(ルソン壷は)骨董価値はあっても美術的価値なんて無い」とバッサリ!一刀両断のチョー二郎なのであった…。
最後に余談として末吉家と千利休が交わした書状にまつわる話を一席。 時代の寵児として活躍した千利休とも交流のあった末吉家。 交わす書状の中に時の権力者であった太閤秀吉について“羽柴”とだけ呼び捨てにしてある記述があるそうだ。 ノリノリ利休には恐いものなど無かったとも言えるエピソード。 結局は秀吉の命により、利休は切腹させられちゃうんだけど…OHブルース…。 |
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