• 2024年5月15日

ひらのの巻

平野区限定情報誌

第3回 「含翠堂」の巻

 
 
チョー二郎夢日記

第3回 「含翠堂」の巻

我が国初となる民間人による学校「含翠堂」があった事をご存知だろうか。
「えっ?懐徳堂じゃないの?」っておっしゃる方も多いのでは?
正真正銘、西暦1717年に平野で創設された“含翠堂”こそが日本初なのである(平野“発”とも言える…)
そして「懐徳堂」の創設は平野のそれに遅れる事7年後“含翠堂”をモデルにしたとも言われている…。

含翠堂の絵図

当時の含翠堂の絵図(複製)

向かって左手に刀を置く場所があり、そこで刀をおけば教室内は侍と町人の身分の差は一切無かった。
資料提供:平野映像資料館

「含翠堂」創設時の看板

「含翠堂」創設時の看板となった書

松村氏所蔵「平野含翠堂史料」(梅渓昇・脇田修 編著)より

ひらのの巻2006年11月号「チョー平野郷な話」の中にもあるように七名家の中の「土橋家」(つちはしけ)が中心となって創設。
“含翠堂”とは言っても専用のお堂とか校舎、施設があったわけでは無く、“井上さん”宅の一室を借りて開かれていたそうな。
明治時代に入り、閉鎖される155年もの間ずっ~とそのSTYLEを貫いたのだそう…。(その理由についてはチョー二郎氏の見解を後述にて!)
この学校のコンセプトは
・授業料無料!
・お金持ちだけではなく、お金の余裕のある町人の拠出によって運営
・身分に拘わらず誰でも学べる
といった現代社会においても羨ましくもある超民主的なものであった…が、しかし!学則の中に奇妙な一文が記述されているらしい…。
そ、それは“七名家は例外♥”というもの…。
ハハハ…どこが民主的なんじゃい!めっさえこひいきじゃん!というお声も聞かれるが、まぁそこは現代における年金問題等で某役人達が犯した(している?)ネコババ事件や裏金問題なんかと比べるとじぇんじぇんカワイイものだけど(笑)
彼ら七名家は含翠堂にとってスポンサーでもあり運営の中心的人物であっただろうからそれぐらいは許してあげましょ♪
何か、保険とか契約書等にありがちなメッサ小さな文字で書かれてる約款みたいではあるが…。
“庶民による庶民の為の学校”とあるが儒学から派生した学校であり、かなり高度な教育がされていた。
現在でいうところの大学の市民講座的な気軽なものから本格的な研究を行うものまであったそうな。
それら教鞭をふるう先生達も当代きっての一流の学者達が招聘されたのだそう。
しかし残念ながら、この含翠堂からは著名な学者が誕生しなかった…。
さて、“含翠堂の帳簿”なるものが残っており「平野含翠堂史料」(梅渓昇・脇田修 編著)として1冊の本にまとめられている。
これを紐解けば、創設年から閉鎖されるまでの155年間における“お金”の全てがわかる。
当時(江戸時代)は変動相場制、そして関西は銀本位制であった。
読み進めるとわかるのだが、現代において大量生産されている衣食住に関わるもの、例えば油とか100均にある日用品とかは現在の方が全然安いのは当たり前。
しかし、現代でも手づくりだったりハンドメイド的な物品の価値はあまり変わっていない事がよ~くわかる。
そして時代時代における“ラーメン1杯600円”みたいな指標として、江戸時代の経済の一端が読み取れるのだ!
例えば含翠堂に招かれた学者さんが飲んだお酒や食べたお魚の値段まで明記されていたり…因みにそのお魚とは「ハマチの切り身(刺身)」だったとか。
えっ~と、その方のお名前につきまして、この場での公表は控えさせて頂きます(笑)
含翠堂の帳簿
含翠堂の帳簿
このように事細かに物価の明細が記されている。
松村氏所蔵「平野含翠堂史料」(梅渓昇・脇田修 編著)より
ところで含翠堂を実際に運営していたのは町人は町人でもバリバリの商人(あきんど)であった。
運営費として寄付され、残ったお金は月一分(1%)で貸付したり、田畑を購入してそれらを貸したり、また貸家を建てそれらを賃貸したり等、資産運用にも抜け目が無かった。
そこでプールされたお金は飢饉等の際に惜しげもなく住民達へ還元されたのだそう。
ここでチョコっと裏話を一つ。
天災や凶作で食料不足となった時にそのプールされたお金で食料を調達!
しかし、米等をそのまま配給したのではズル賢いヤツらが横流ししたりする恐れがある。
そこで石原軍団よろしく“炊き出し”STYLEで食料を配ったのだとか。
おぉー賢い!これなら横流しできないし、第一、折角の料理が冷めたらマズいもんねっ!(スグ食べないとねっ!)
因みに炊き出し会場は大念佛寺で行われたそうである。
言わば「含翠堂」とは民衆にとって学校であり銀行であり不動産屋であり石原プロ(笑)であり…学校という枠を超えたライフ・ラインならぬ“ライフ・スクール”であったのだ!
つまり、商人(あきんど)の「損得勘定」が反映された町づくり、ここで言う「得」は「徳」であり平野の民衆が一番“得”(徳)をする行政が行われていたということ。
チョー二郎曰く「現代の行政にも是非とも見習ってもらいたいものだ」と一言…。
あっ、そうそう“含翠堂”に自身の施設を造るに余りある強大な資金力があったにも関わらず「井上さん宅の一室」にとどまった理由…チョー二郎氏の見解は「そうする事が運営者にとっても井上さんにとっても、そして民衆にとっても一番“徳”だから」と…。